子どもたちを放射能から守るために。 はかる、知る。「放射線見える

子どもたちを放射能から守るために。
はかる、知る。「放射線見える化プロジェクト」


 そんな名前のプロジェクトが、国分寺市にある「こどもみらい測定所」ではじまりました。
 このプロジェクトは、首都圏を中心に各地の空間放射線量をできるだけ正確にはかり、日々の生活を送って行く際のよりどころとなる数値を出して行こうというものです。
 はじまったきっかけは、空間線量をきわめて正確に測定してマップ化できる「ホットスポットファインダー」という機械が発売されたこと。もともと、食品や土壌の放射線量の測定をおこなってきた、こどもみらい測定所が、「この機械で空間線量もはかって、放射能に関する的確な情報を、必要としている人たちに届けたい」という思いで、プロジェクトを始めたのです。
 第一弾は、まずホットスポットファインダーを手に入れること。130万円という金額を、インターネット上で寄付を募る「クラウドファンディング」によって集めています。
 手に入れた暁には、寄付をしてくださった方々の要望にこたえながら各地を計測していくことはもちろん、さらに各地で、空間線量のみならず、食品・土壌の測定や、西日本への保養案内も組み合わせたワークショップを開催しようと考えています。そして最終的には、各地の測定所と協力しあいながら、正確かつ随時更新されていく東日本の空間線量マップを作ることを目指しています。
 ぼくはこのプロジェクトを住む土地の「健康診断」みたいなものだと思っています。空気と土と、食べもの。その線量を定期的に調べて「今」の状況をできるだけ正確に知ること。その情報をもとに、どのような対応をするか、ひとりひとりが選択できれば、その地に住む人たちはずいぶんと安心できるのでは、と考えています。

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 ぼくもこのプロジェクトのお手伝いをさせていただいています。立ち上げの際にお声がけいただいたのがきっかけですが、そうでなくても、こちらから協力を申し出たように思います。
 ぼくの妻子は、今、岡山に住んでいます。2011年の9月、子どもたちへの放射能の影響を考え、夫婦で相談して東京の国分寺市からの避難を決めました。  
 妻子の移住を決めた理由はいくつかあげられますが、ひとことで言うと「わからなかった」からです。
 放射性物質がたくさん首都圏に降り注いだ日に子どもたちを外で遊ばせた影響がどれだけあるのか、彼らが大好きな川べりのクワの実を食べたときの影響がどれだけあるのか。彼らが大きくなるまでに福島第一原発の事故は「収束」するのか。大きな地震はふたたび来るのか。ぼくには、わかりませんでした。ならば、ひとまず子どもたちへの原発由来の被ばくをできるだけ避けた方がいいかな、と考えて選択をしました。
 東京に残りたいと言っている子どもたちを説得しながらの移住でした。だから、親の勝手だなあとも思いますし、実際にとあるインターネットサイトでぼくたちは「放射脳夫婦で子どもたちがかわいそう」と散々に叩かれています。ただ、岡山に行って、何の気兼ねもなくどろんこになって遊んでいる子どもたちを見たときの安心感は、何にも代え難いものでした。
 これから先のことも含めて、自分たちはこういう選択をした、ときちんと受け止めて、淡々と日々を暮らして行くことにしています。

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 ぼくは月に2回のペースで岡山に行っています。家族との時間は、限られていることもあり、とても貴重に感じられます。1年以上が過ぎて、岡山にも友人や知り合いが少しずつ増えているので、楽しくやっています。
 一方で、東京でさせていただいている仕事も、まあ、やりがいがあると言っても過言ではないですし、ぼくのようなメディアにまつわる仕事を「東京以外」の土地でやるのは、それなりに準備がいるだろうな、とも思います。家庭と仕事の間で揺れ動く感情があります。
 揺れてこそいますが、やはり、家族が離ればなれで暮らす状況に満足している訳はありません。一人暮らしは寂しいものです。だから、西へと移動する計画を練っております。
 岡山に行った妻は、福島に住まわれる方々を中心に、西日本への保養や移住の支援をするようになりました。自分たちは東京を離れたけれども、東日本に住むことを選択した友や親族に、常にこころを寄せていたい、と言っています。
 そんないささか特殊な立場にいる自分ができることは何だろうか、家族のことが一段落してから、ぼくはしばしば考えていました。そして、この世の中で、ここまで予想もしなかった「選択」をし続けてきた「311以降の人々」と、程度こそ違えど、ぼくもその一員として、何かを作りたいと思いました。
 ぼくは文字を書く人です。かと言って「メディアの力」を使って何のつながりもなく皆さんにお話を聞きにいくのはちょっと避けたいと思っています。その方法論が悪いわけではないです、ただ、このテーマに関しては、もっと、すっと入って行く感じでお話を伺いたい。「ぼく個人」の思いをもとに話を聞きたいのです。残った、避難した、というひとりひとりの「選択」を批判的にも、礼賛しても書かず、あるがままに、でもそこに「何か」を込める。
 この試みは、多分、自分の311以降を見つめるための作業にもなるのだと思います。
 だからこそ、今回のプロジェクトで様々にお手伝いをする中で知り合い、関わる方々に、少しでも寄り添った位置からお話を伺えることが、できれば、という思いがあります。その結果が、記録となるか作品となるかはまだわかりませんが、これから先の世代の人たちの生きて行くひとつの指針や参考となれば、とても嬉しい。そう感じています。

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 子どもたちが東京を離れるときの小学校でのできごとを思い出します。
 上の娘が入学して一学期通っただけで「転校」を選択したことに、担任の先生から校長先生まで、真剣に向き合ってくださいました。そして、最後の日に、「全校生徒でお別れ会をしたい」と、全員でうたをうたいながら、娘を送ってくれました。校長先生が「この子はいつまでも、この学校の生徒です。いつでも、戻ってきていいですよ」とおっしゃったときに感じた親としての思いは、何に例えることができるでしょう。
 野原にあるちいさな幼稚園で迎えた卒園式も忘れられません。
 これから先、さまざまなことが起こるように思います。でも、311を経験した子どもたちが、大きくなって笑って再会できるよう。そしておとなたちが「あいもかわりませず」と新しい一年を迎えることができるよう。
 そんな思いと祈りを込めながら、今回のプロジェクトのお手伝いをさせていただいています。よろしければぜひご協力お願いいたします。

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放射線見える化クラウドファンディング
http://shootingstar.jp/projects/134#summary


こどもみらい測定所:
http://memoli4future.com/kodomira/