切り株オムリエ。

na2on2009-06-16

 ツマとワタクシがこよなく愛好する音楽のひとつに、マッシヴ・アタックというバンドがあります。中でもワタクシのお気に入りが、プロテクション、という曲です。
 今回の「ナチュラルマザリング」の巻頭に掲載した、詩のような、お話のような一節は、この曲を頭に思い浮かべながら書いたものです。



 ほのぐらく、あたたかなほらあなを出た
 こぐまが、そこにちょこんとすわれるような、

 そしてそこから立ちあがり
 もりのそとへ歩いていくような、

 うえには、大きな木がおおいかぶさり、

 あめのふる日はかさになり、
 はれた日にはひかりをみどりに染め、

 風にはっぱをそよがせて
 ざあざあ音たてる、

 すわっていたらいつのまにかおちついて、

 もりのなかの、かすかな音がきこえるような、
 からだのおくから、声がきこえてくるような、

 そんな、きりかぶ。



 現在5歳を間近に控えたムスメ、ウタが2歳になるかならないかの頃、彼女は、アパートメントのトイレットの前に置かれた「おまる」に腰かけて、センベイを食べたり、ひとふしうなったりするのを常としておりました。

 正直、おまる本来の使われ方をされるより、腰かけ、として使われる回数の方が圧倒的に多かったと覚えております。

 いずれにせよ、ウタが座るその様は、森の中の切り株に座るこぐまを連想させました。

 そのまるっこい背中を見ていると、わかちがたくつながっていた母親の子宮やおっぱいから、あるいは、もっとも幸せだった時代から、ウタが次第に遠ざかっているのだな、と感じ取れました。

 そして彼女にとって、コトバを使い、自分とは違う人たちと交わっていく、つまり他人たちがいる中で自分の場所を見つけることが、たぶん、とても難しくて大変な努力を要することなのだろう、と思えました。

 おまるは、ほのぐらくあたたかい場所の記憶もまだ残っているであろう彼女にとって、ほっとひといきのつける安息の場所のように見えました。そこに座って、心を落ち着けて、また立ち上がって、外へ足を踏み出す。いわば子宮やおっぱいとつながった内なる世界と、外の世界の間にある小さな陽のあたる場所のように見えたのです。

 そんなウタコグマが座るその姿にいじらしさのようなものを感じ、ワタクシは声をかけるのをためらい、じっと眺めることとなったものです。

 もし、おまるが、ウタコグマがほっとひといきつけるような切り株であるのならば、とワタクシはその時思ったものです。ワタクシは、切り株の上に枝を張り、雨風を少しは防ぐ木の役目をしようではないか、と。

 現在、ウタは、いまだ、外の世界とうまく交わるために、フントウを重ねています。いつの日か、彼女が小さな森の世界から外の世界へ旅立っていく時が来るだろうと思いますが、それまで、ワタクシが、頼りないながらも枝を張り、根をおろした木になり得るのか? とても心もとなくもありつつも、プロテクトする役割があるのだろう、と覚悟をしつつあります。

 そして、マッシヴのうたのように、そっと腕をまわしてほしい、まわしてあげたい、と彼女が願う存在が現れることを待とうと思います(あえて楽しみに、とは書きませんが)。

 ちなみに本誌では、本人も大変にチャーミングな森佳奈嬢が、とてもやさしく、あたたかい絵を寄せてくれています。必見だと思います。