明日だオムリエ。

na2on2010-05-07

 自然な育児をしている、もしくはしたいおかあさん、おとうさんのための書籍『ナチュラル・マザリング』第3号「親子で整体ことはじめ」、現在好評発売中です。

 そして、いよいよ間近に迫った5月8日、9日、東京代々木のオリンピック記念青少年総合センターで開催する「ここからミーティング」。

ここで「親子で整体ことはじめ」発刊を記念して、森佳奈さんの原画展示と片山貴博さんの写真展示を行ないます。

 先日、森佳奈さんと、展示の打ち合わせをしました。

「いったん出来ても、一晩寝かせると、
これじゃ出せないってこともあるんですね。
そうなると、最初に描いた時の絵を切って
貼ったりして、作り直す。
再利用するんです」

 といった製作打ち明け話も当日ご紹介しますね。

 さて、その絵に添えさせてもらっている詩は、こんな感じです。
 ちょっと長いのですが。

 ♣♣♣

わたし は 
あなた を
だきあげる


あなた は
あなた の
てあし を


ずっと まえから
そうだったかのように
わたしにぴたりとくっつけ
わらいかける


そんなとき
わたし は
おもうんだ
はるかとおくを
ながれてゆく
とうとうとした
水のながれを


ずっしりと
あなた の
おもさ を


感じながら
わたし は
おもうんだ


ひろい大地に
たゆたうながれに
みをゆだね


ただよっていく
わたし と
あなたを

 ♣♣♣

 今回、特集のテーマが決まったとき、真っ先に頭に浮かんだのが水のイメージ。
 水がとうとうと流れる映像が、すっと見えてきたのです。

 そこをただよっていく「わたしとあなた」は個人的に言えば、ぼくとムスメです。

 ぼくのムスメは、この世界に生まれ出てからしばらくというもの、ツマ以外の人に抱っこされるのを、とても、嫌がりました。ツマ以外の人間が抱こうとすると身をよじらせ、こころの底から、つらそうに泣くのです。
 
 生まれて直ぐ、心臓にやや問題がある、ということで(今は問題ないそう)、10日ほど、保育器の中に入って、母親の母乳や、声や、からだのぬくもりを、ほとんど味わえなかったことを、彼女が泣くたびに思い出しました。

 彼女にとって、36時間もかけて、出てきた世界は、一日中蛍光灯が照らされ、ラジオからの音楽が流れ、彼女が泣きながら訴えても、誰も来てくれない、場所でした。

だから、その後ようやくたどりついた「母親」と離れることは、とても怖くて、つらい、と感じているんじゃないか。

 正直に言えば、その時のぼくは、そんなことに気付きもしませんでした。彼女の気持を想像し、彼女のことをもっと知ろうと、ツマと共に(ツマはしていたと思う)もっと考えることができていたら、という思いは、今でも残っています。

 ただ、実際、出来ることは、ある程度限られていたようにも思います。入院していた病院の対応も、まあやむを得ないだろうなと思いますし。

 行脚もしました。お亡くなりになった自然育児の大家Y先生は、つらそうなご体調にも関わらず診てくださって、抱き方などのアドバイスもしてくださいました。でも、ムスメはぼくがどんな抱き方をしても、顔をくしゃくしゃにして泣きました。

 どうして抱かせてくれないだろう、すんなり抱かせてくれ。ずっとそう感じていました。

 泣いているわが子を、ツマに手渡すときは、なかなかにみじめな気分でした。自分が問題のある父親なのだろうか、という思いが、余計憂鬱な気分にさせました。

 でも、ぼくは、少しずつ、ツマと一緒に「子育て」をしていきました。

 子どもがかわいいという思いはありましたし、いい父になろう、という自意識だってあったと思います。でも、何より、ひとときも離れないムスメを抱えたツマをサポートせざるを得なかったのが実際です。

 おむつを洗い、干し、取り替え、ごはんを作り……。葛藤やらありつつも、ひとつひとつ積み重ねるように、日々の生活をこなしていきました。

 でも続けていくうちに、少しずつ、いろいろなものが変わってきました。ムスメは、おむつの取り替えは、最初からいやがらなかったし、それをきっかけに、ふたりでお風呂に入り、手をつないだり、とぼくとムスメふたりの間で、できることが増えていきました。

 ムスメはこうやって、少しずつ、分ち難くつながっている母親から離れ、世の中の人たちとふれあっていくのだろう、と思いました。とってもスローだけど、ひとつひとつのことがらに、時には激しくぶつかりながら、自分で、納得してから進んでいく。それが彼女なりのペースなんだな、と感じることができるようになってきました。

 子どもには、子どものペースがあるし、ツマにもある。

 言葉にすると、うわーそんなことわかってるわけねえよ自分、と自分に言ってしまいたくなりますが、でも、確かに、前に比べてそう感じるようになりました。

 ともかく、それならば、彼らのペースを尊重しつつ、皆で大きくゆるやかな生活の流れを作っていこう、という思いが浮かびあがってきたのです。そう感じると、日々の生活も前より楽しいものとなっていったようにも思います。

 ムスメが、ぼくに抱かれて、笑うようになったのは、いつだったのか。二人目の子どもが生まれて、ようやく、子どもは、抱き上げた時に、軽いときと、重いときがある、ことを実感するようになってからだったかな。もう正確には思い出せません。

 ある日、抱き上げると、彼女の手足が、ぼくの体に吸い付くように張り付き、まるでもとから、ここにあったような気持ちになりました。

 さらにすっと持ち上げると、ムスメはもっとぴったりと体を寄せ、嬉しそうに笑いました。ぼくも嬉しくて、嬉しくて、にっこり笑いました。

 彼女の呼吸が耳元で聞こえて、全身を通してしっかりとした重みが伝わってきました。互いの皮膚の凹凸が組み合わさり、柔らかな部分が硬い部分を包みこむ。そのなめらかさは、とてもあたたかくて、気持の良いものでした。

 それまでは、ぼくの手や足が、とってもごつごつとしていて、弾くように子どもを抱いていたんだな、と気づきました。だから、今まで、抱いても互いに、どこか落ち着きがなかったな、と。彼女が、ぼくと「世の中」の何かを受け入れ、納得し、すっと開いてくれたことで、ぼくもそれに気付けたんだろう。そして、ちゃんと開いたんだろうと思いました。

 こうなるまで、互いが互いのありのままを受け入れるための時間をたくさん、たくさん、重ねていたんだな、と。

 くすくす笑いながら、ぼくは、まるで水の中を、流れているみたいだ。と思いました。

 いくつもの流れを集め、うねっていく大きな川をただよいながら、同時に、互いのからだの中を流れる水のうねりを合わせているように思いました。

 互いに、自然に、ゆだねあう。その人とともにいることがかけがえのないこととして、感じられました。

 今だって、どたばたし続けているけど、ぼくは、時として、そういった小さいけど、とても大きな、経験を重ねながら「かぞく」とともにいるんだな、と思います。

 ♣♣♣

 ぼく自身、変なんで言うわけじゃないですが、「かぞくのかたち」は、きっと、いろんなかたちがあるんだろう、と思います。からだとこころ両方で感じる、素敵な体験は、同じようにそれぞれが持っていると思います。

 いまだ、そのとば口にすら至っていない、ぼくが言うのは、おこがましいと思いますが、でも、もしかしたら、「整体」は、自分と、大切な人の、からだとこころの動きを観察し、受け入れ、すこやかに生きていくための、姿勢や生き方なのかもしれない、とも思います。

 そして、森佳奈さんの絵は、そんな「共にいる喜び」を、まるで息をするみたいに、自然に現してくれています。その原画是非見てください。

 ♣♣♣

 ナチュラル・マザリング購入等に関しては、こちらをご参照。
 http://shizen-ikuji.org/kaiho/nm/
 
 ここからミーティングに関しては、ここをご参照。
 http://shizen-ikuji.org/kokokara_mtg/