コトバ。

 ワタクシどものムスメは、ここのところ、たくさんコトバを覚え、使いこなしています。その用法の適格さを見ると、ムスメは、ワタクシどもオトナの会話をほぼ理解しているんだろうなあ、と感じます。別にワタクシどものムスメに限った話でなく、赤子とかコドモって、とても敏感にオトナのコトバを理解しているんだと思います。

 その聞いて分かっていたコトバを、今度は自分から発し出したムスメは、ほんの少しではあるけれど、オトナっぽくなってきたような気がします。

「じぶん」が最近のムスメのはやりです。例えばスーパーでカートを押している時、人にぶつかりそうなので、ワタクシが手を差出すと、払いのけて「じぶん」、ごはんを食べ終わってよだれかけを取ってやろうとすると「じぶん」。要するに自分でやる、という意味です。

 同時に「だいじょぶ」というコトバもしゃべるようになりました。寒くないか、痛くなかったかなどといったワタクシどもの問いかけに「だいじょぶ」とつぶやくように言うムスメは、さらに「ばいばい」と「せんせいこんにちはー」を組み合わせて、かあちゃんがいなくても、センセイたちとちゃんと自分はやっていける、だいじょうぶだ、と告げます。要するに託児に預けてもいいよ、とけなげにも宣言しているのです。実際は泣いたりもするのですが、それでも必死になってがんばろう、としているのが見て取れる。

「じぶんじぶん」と言い続けるムスメは、時として、ワタクシどもがうんざりするくらいの「自己」を押し出してきます。食べるのに飽きて来るとコップや食材をぽいぽい投げ捨て、やめるように言っても続ける、そんな利己的でワガママな部分は元来持っていましたが、その部分が強固になっている。

 しかし、同時に、彼女は、一所懸命ガマンもするようになっている。ワタクシのツマが仕事をしているとき、気分が悪くて横になっている時、ワタクシはダメモトで、あのねかあちゃんはこれこれこういうわけで今君と遊べない、なのでとうさんと遊ぼうじゃないか、と告げるのですが、これをムスメはシンミョウに聞き入れ、ちょっと考えてから、ワタクシとそれなりに遊ぶようになっております。

 これはワタクシに慣れた、というのもあるとは思いますが、同時にやっぱりオトナの事情を分かってあげようとしている結果でもあろうと感じます。ワタクシと二人でオツカイにいくムスメは「かあちゃん」とつぶやいて後ろを振り返りながらも、ちゃんと前を向き直し、自分のペースで歩き出す。

 やっぱり少しだけムスメは変わったようです。

 そして、コトバって面白いなと思います。

 それまで、コトバがしゃべれないムスメのうごき、というものはとてもシンプルでした。おなかがすく、ねむくなる、おっぱいをまさぐりたくなる、あそびたい、そういったオトナに伝えるべき欲求は素朴でした。

 それがコトバをしゃべるようになって、欲求が複雑になってきた。

 そしてコトバをしゃべるようになって、オトナのつまりワタクシとワタクシのツマの事情を受け入れるようにもなった。

 コトバがなくても、十分伝えあい、そして守られる赤子の満ち足りた生活、というものに、ワタクシは物凄く憧れています。そこでは、ほとんどの物事が許され、祝福すらされています。

 それに引き換え、コトバをあれこれひねくり回して駆使する現在のワタクシたちは、欲求も複雑、伝達する物事も複雑で大概がくたびれた、小突かれまわされたものばっかりです。

 ムスメは、そんなワタクシどもオトナの方へ、コトバを猛烈なイキオイで覚えるのと同じくらいのスピードで向かってきています。ある意味わざわざシンドイ方へ向かってきている。

 でも、ワタクシは、赤子の時の方がいいからそっちへ行ってみよう、とは思わないのと同じように、ムスメの「オトナ化」が馬鹿げているとは全く思わない。コトバってろくでもない面もあると思いますが、やってかなきゃなんないし、やっぱり、そのコトバのおかげで、より多くの人と細かい気持ちの伝達ができているはずで、そんなにわるいことばっかりでもない。たまにはいいこともある、と思っているからかもしれません。

 とにかく、好もうと好まざると、ムスメは、いつかこちら側へ来るでしょう。

 と言いつつワタクシは、究極のコミュニケーションは「フレアイ」だとカタクナに信じる傾向にあり、その実践として、なぐさめたり、親愛の情を示すためにツマやムスメを抱いたりするボディタッチを敢行するのですが、実にしばしばタイミングを間違え、はたかれます。

 ムスメのあのコトバすらいらないシンプルで力強い「察する力」、薄れて行く前にワタクシにわけてくれんか、ちょっとだけ真剣に考えています。

(*2月8日分の書き直し)