オムリエ桜。

 ワタクシ、学生の頃『桜の森の満開の下』を読んで、その圧倒的な感情のホトバシリにやられちゃった経験があります。もちろん、今読んでも、ぎゅっとした気持になれる小説だと思いますが、実は、満開の桜の下で、人がかき消すようにいなくなってしまう、あのラストシーンの情景が今ひとつぴんと来ませんでした。

 壮絶で豊潤でぞっとして美しい、ってのはなんか、わかるような気がするのです。しかし、ならばと、今まで、公園やら河原で見てきた桜を思い浮かべ、小説の場面に当てはめてみても、なんだか迫力が出てこない。

 要するに身をもって実感できていなかったわけです。それが、今年、ああなるほどと感じる情景を見ることになりました。

 ツマの実家に遊びに行ったとき、近所の神社を通りがかりました。普段は神々も眠っているような静かで小さな神社が、その日は神楽でも行うようで舞台が飾り立てられ、近在の人々が集って、その頭上に盛りをやや過ぎた、桜がぽってりと咲いており、そこに風がさっとふいて、花びらが舞い散りました。

 はじめて、桜ってすごいなあ、と思いました。

 なごやかなんだけど、桜の凄みを感じたといえばいいんでしょうか。桜の花びらが、舞い散り、人々の頭に降り注ぐたび、その人たちは、桜の力を浴びて自分とは違う何かが少しずつたまり、狂っていくような気すらしました。でも、その景色は、まがまがしいものはまるでなく、あくまで穏やか。

 それをきれいな風景だと告げたら、ほらあれが山桜と義父が指差してくれた先には、晴れた空の下、うっすらとかすんで見える山の中腹に水を含ませた筆でとんとんと叩いて出来たような桃色の一角がありました。

 あ、あの下は桜が舞う、しんとした場所だろうな、と思い、そこではじめて、坂口安吾の小説のあの圧倒的な、桜という自然が繁茂し気配やら分泌物やら魔力やらを出しまくっている情景の手触りが実感できたような気がしました。

 その時の一連の情景、今、思い出すと、サイレントの映像を見るように、不思議と音がなく、花びらだけがひらひらと動いています。そして、人や植物や生き物の気配を、ありありと感じます。

 ツマは都内の公園をこよなく愛しておりますが、それはやはり切実な思いから来ているのだ、とワタクシに告げたことがあります。関東平野の北の端にあるのどかな町の、そのまたはずれにある小さな集落で生まれ育ったツマにとって、木とか草とか川とか虫とかいった自然は、そこにあるもので、そこにそれがないトウキョウ、というところは大変に、いづらいらしい。人の手によって整えられた公園の自然でもいいから、木とか草を身近に感じたい、ということらしい。

 そのツマの実家で味わうことのできた、しんとした、そこにいる生き物の気配が、そして彼らが動かしているかすかな空気のうねりがわかるような情景。

 町中の団地で育ったドンカンなワタクシは、23区内では、東大の裏手にあるさまざまな木々が勝手気ままに生えている小さな植物園でしか味わったことはありません。

 ツマにとって、その、そこだけ他から浮かび上がっている箱庭のような植物園が、都内で最も大事にしている場所であり、そこへ連れて行ったとき、まだ小さかったムスメは安心しているような、穏やかな顔してツマの腕の中で熟睡しておりました。

 そんなムスメに、こういう景色こそ目に焼き付けときなよ、とオヤジくさくクンジ垂れようと見やると、歩いたり走ったりに忙しい彼女は、桜の花びらを鼻の頭に乗っけながら、ばあちゃんおなかすいたーと訴えかけ、マゴ最優先の義父母は早く乗れ乗れとワタクシどもをせきたて、それーと車の車輪きしませ、蕎麦屋へと急ぐのでありました。

 今年はステキな花見ができました。