オムリエラッピン。

 ワタクシが、はやく帰宅した日の晩御飯時、ムスメは、今日あった出来事を報告しだします。

 あのさー、えっとさー、と彼女がこよなく愛好する近所の公園に行ったり、そこでぶらんこに乗ったり、かあちゃんに叱られたことを彼女の知るコトバを最大限活用してとつとつとしゃべるムスメ。うんとー、を繰り返しながら語られる内容は、語彙が少なく文法もなにもあったもんじゃないのが不思議なくらい、平易でわかりやすい。なので、ふむふむ、とか、それで、とこちらも自然にコトバが出てくる。

 ワタクシの相づちや合いの手が入るにつれ、だんだん彼女のおしゃべりにも熱が入ってきます。最初は、こちらの質問にも考え考えこたえたりしていたのが、やがて自らで新たなエピソードの断片を作り出し、それらのコトバがさらに次のフレーズを呼びおこし、体が動き出す。そして、やおら立ち上がり、歩き出し、両手を前に出したり引っ込めたりしながら、リズムに乗ってしゃべりだす。内容は、もう適当になってきて、ちょぎれとばっちなる、ワタクシどもオトナには見えない彼女の友達が唐突に出てきて、かれらが、お医者さんに行って注射を打たれて泣いたり泣かなかったりしながらコトバがうねりだしてゆきます。

 そのコトバからうたへと変貌するグルーヴ感。まさにラップやヒップホップ的なものがあります。

 ワタクシがユカイユカイと喜んでいると、さらにスパークして、その場でどしんどしんとジャンプする。そしてあははははと大きく口をあけて笑う。そこに至ってツマが、ちゃんと座ってゴハンを食べなさい、と叱りつけ、ムスメはむすっとしつつちゃぶ台の前に戻り、チクワなんぞをもぐもぐしています。

 そんなムスメは、セガレのイノジの誕生に伴い、ひとりあそびが否応もなくうまくなり、今日も今日とて、オモチャをいじりながら、コトバにならないようなヒトリゴトをつぶやいています。そしてセガレがぐずったりしだすと、いちゃーん、とやさしい声をかけ、彼女なりにおとうとをあやそうと、子守歌が流れ出すオモチャのスイッチを入れ、その音に合わせて、手を空に向け、頭をゆっくりと回し出します。そして、興が乗ってくると、みずからオリジナルのうたをロウロウと歌いだし、ステップを踏む。

 コトバとうたは極めて近接していること、そしてうたと踊りは密接につながっていることが、そのさまを見ていると、納得できます。そして、自らの思いを放出し、相手に伝える表現手段であるそれらに、ムスメは、純粋に没頭できるヒトであるのでしょう。

 ワタクシが最も心を動かされたある歌い手のコンサートは、静かな、ささやくような音で始まり、優しく、体の奥のどこかに横たわっている原始の記憶に呼びかけるような歌声が続き、やがて盛り上がって来て、最後に一気に爆発しました。それまで座って聞いていた聴衆も、その歌い手の、ためにためてきたものを一気に放出し、忘我のごとく踊り、はるかかなたにいる仲間へ呼びかけるような長い余韻をもつうたいっぷりに、瞬間的にみな立ち上がり、その時、確かにワタクシどもは、それまでいた場所から、少しずれた場所へ移動しました。

 歌い手は、もちろんプロフェッショナルゆえ、そこには練り上げられた演出も頭にきちんと入っているはずですし、効果的にワタクシども聴衆を巻き込むノウハウもあるはずです。しかし、そのうたは、ムスメがほぼ無自覚に行っているであろう、つたない表現に、根をどこか同じくしているように感じると書くといささか親ばかが過ぎるでしょうか。はじめはひとりごと、そして、ワタクシども親や、おとうと、に向けて語っていたのが、いつしか、特定の誰かに伝えるだけではなく、自ら自身が表現される世界の中へと没入してゆくかのようなムスメの姿には、彼女自身を超えた、ヒトやドウブツとしての崇高さを感じるときがあります。

 そんな気高きムスメは、一方で、夜、寝るとき、セガレに添い寝するツマに、つないでほしい、と手を伸ばしてツマの手をにぎり「うたって」と言うのだそうです。この、うたって、は、お話しして、と同義のコトバで、ツマが即興の物語を話してゆくと、ムスメはやがてすとんと眠りに落ちる。そして、ワタクシが、夜、帰宅して、寝室をのぞくと、ムスメは大の字になって熟睡しております。ちゃんと片手は、ツマの方に伸ばしたまま。

 だいすきなヒトからつむぎ出される、コトバとうた、は彼女にとって、こころの片隅に記憶の残る、あの、あったかくてうすぐらい場所を思い起こさせる、ハッピーでやさしいものなのでしょう。