オムリエシロツメ。

 ワタクシは公園をこよなく愛好しております。

 そもそも、住んでいるところの 近くにステキな公園があるかどうか、で、都市生活のウルオイ度は大きく左右されるのではないか、と考えております。そりゃあ、駅に近い、とか、スーパーマーケットがあるか、とかいった生活必須条件に比べると、例えば、おいしいパン屋だとか品揃えにコダワリが感じられる古本屋があるとかいった、オプション的な存在ではあります。が、晴れた日にちょいと足を伸ばして気のきいたそこの草はらでゴハンなぞ、と想像するだけで、いい気分になるような存在です。なくてもやっていけるけど、ないとかなりさびしい。

 以前まで住んでいたところは、近くに23区内でもトップ3に入るくらいイカした公園がありました。引越す際、その公園に通うことが出来なくなることくらい名残惜しいものはありませんでした。

 でも、新しく住み出したところの近くにも、いい公園がいくつか見つかりました。ワタクシどもは、しばしばそのうちのどれかひとつを訪れて、ごろごろ転げまわったりくすくす笑いあったりするようになったし、めぼしをつけた公園をチェックしがてら遊びに出たりするようになったのです。

 先だっての、夏がはじまったと感じさせる暑い日に、家族ではじめて訪れた公園は、ずっと向こうに遊園地の観覧車が見えました。その公園に、ワタクシは、前にいちど来たことがありました。

 何年か前の、はれた日、ワタクシは友人に連れられてこの公園に来て、芝生でうたを歌ったり、しゃべったり、アルクホールをたしなんだりと、公園におけるワコウドのあるべき振る舞いを行っていました。彼はギターを抱えていて、ワタクシも彼も半徹夜あけで、空は抜けるようで、そして草は青々としていました。

 ワタクシもそして多分彼も、どこか遠くへ行けると信じていたし、芝生は、ごろりと寝転んだワタクシどもを、あたたかく受け止めました。どこにいるかもわからない、もしかしたらどこにもいないのかもしれない、でも鼻息だけは荒いワタクシにとってほほにあたる草は、ちゃんと触れることのできる貴重なものに感じられました。そして草はらの現実味のある、やわらかな手触りに、自らののぞみを支えてくれるものを感じていました。

 当時、毎日のようにつるんでいた友人とは、その後、疎遠になってしまいました。でも、公園の草はらは、今もちゃんと青々と茂っていました。

 芝とシロツメ草が混ざった草はらの上をムスメはツマと一緒にばたばた走り回り、セガレはお座りして、シロツメ草の花を食べようとして、そのままべた、ところげております。起き上がりこぼしに酷似した様子なのですが、彼はまだ起き上がることができないので、そのままの体勢でむごむごと花を手許に引き寄せるのに余念がありません。何往復もツマとかけっこを続けたムスメは、ついに足ももつれ、こちらは夕日しずむ直前に目的地に到着した時のメロスもかくやとばかりにどてっと両手を前に出してこけます。

 ちょっと前に、ワタクシどもワコウドを受け止めた草は、時を経て、ワタクシのムスメとセガレをふんわりと受け止め、彼らのゴキゲンな気分をそのままにしてくれております。そしてすべてを暖色に染める初夏の夕日は、なかなか落ちず、コドモたちは、公園の草はらでいつ果てるともない遊びを楽しんでいます。

 そばを走る電車の黄色い車体が、夕やけと混ざってみかん色になっています。その電車に乗れば、ワタクシどもの家に帰れます。

 さあ、そろそろ行こうか、そう言ってなおも遊びたがるコドモたちを連れて、芝生を横切り、出口へと通じる木立に入って、振り返ると、夕日が木々の隙間からさして、草と土の上に光の帯ができていました。きれいだね、と指差すムスメに、うん、こういう景色をだいじにしとくといいよ、と言いながら、ワタクシどもは帰路についたのでした。

 うれしいとかかなしいとかなんかつらいとかやっぱりたのしいやとか、そういったさまざまな思いのようなものを、その都度うんうんと受け止めるような場所があるといいなあと思います。どこか懐かしいような、心の奥底のどこかにおいてあったすごく昔の記憶をそっとなぞるような空気の流れ。気の利いた公園は、そんなやさしい気配がある、たいせつな場所なんじゃないかと思っています。